-天気予報コム-

2013/07/08

鬼と旅人の話 -気になる仏教説話-

梅雨が明け、いよいよ猛暑がやってきました。
こう暑いと、鎌倉散策もちょっと、という感じですね。。。若い人は気にしないかもしれませんが。。。

今日は、鎌倉とは直接関係ありませんが、以前読んだ『ユング心理学と仏教』(河合隼雄 岩波書店)という本に、とても印象に残る仏教説話があったので、ご紹介したいと思います。
(本自体はやや専門的な内容です。)


ある旅人が一軒家で一夜を明かすことになりました。
すると、夜中に一匹の鬼が人間の死骸をかついで来ました。さらに、すぐ後にもう一匹の鬼が来て、その死骸は自分のものだと言います。

2匹の鬼は、しばらく言い争いますが、決着がつきません。
そこで2匹の鬼は旅人に判断を仰ぎました。
旅人が最初の鬼のものだと言うと、後から来た鬼は怒って旅人の手を体から引き抜きました。
それを見た先の鬼は死骸の手を抜き取って代わりにつけてくれました。
他の鬼はますます怒り、もう一方の手を引き抜くと、また先に来た鬼が死骸のを取ってつけてくれる。。。

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こんなことをどんどんやっているうちに、旅人と死骸の体はすっかり入れ替わってしまいました。
二匹の鬼はそうなると争うのをやめ、死骸(実は旅人の体)を半分ずつ食べてどこかへ行ってしまいました。

驚いたのは旅人です。自分の体はすっかり鬼に食われてしまったので、今生きている自分が、いったい本当の自分かどうかわからなくて困ってしまいます。


ちょっと不気味な話ではありますが、仏教説話としては「己とは何か」、更には「色即是空、空即是色」と言いますように、この世のものすべての「存在」自体を問う、非常に深遠な問題をつきつけているわけです。

しかしながら、私がこの話を読んで感じたのは、この説話、現代においてはあながち例え話、おとぎ話ではすまないなあということです。臓器移植、クローン人間等々・・・。
科学が進歩して、私のクローンができたら、本当の私は一体どっち?ということになるかもしれません。

また、そんな大げさな話でなくても、人間、みんなが自分の思い描くように生きることができるとは限りません。
自分の夢とはかけ離れた人生を、素直に自分の人生と受け入れられるかということも、生きている上では良くあることですし、説話の話にも通じると思います。


この説話、続きはどうなるかというと、困った旅人は坊さんに相談します。すると坊さんは、

「あなたの体がなくなったのは、何も今に始まったことではない。・・・・・愚かな人間たちは『われ』というものにとらわれていろいろ苦しみもするが、一度この『われ』というものがどういうものか分かってみれば、そういう苦しみは一度になくなってしまうのです。」

なるほど。ちっぽけな「我」など、捨ててしまいなさいということですね。
こうでなくてはダメだと、自分で決めつけるのではなく、世の中にはいろいろな生き方があると素直に受け入れれば、人間、以外と幸せに生きることができるのでしょう。
私自身も、自分など取るに足らないと思うことがありますが、そんなときは、映画『素晴らしき哉、人生!』を思い出して、自分だって、意外と世の中の役に立っているかも、と思うようにしています(笑)。

ユング心理学と仏教


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2011/07/26

たとえ地球が明日滅びるとも、君は今日リンゴの木を植える

「たとえ地球が明日滅びるとも、君は今日リンゴの木を植える」
ポーランドの詩人・ゲオルグの言葉として、石原慎太郎氏によって紹介されていたのを見て、非常に感銘を受けた言葉です。

この言葉については、「ゲオルグなる詩人は、「ポーランド」の詩人ではない」、とのご指摘や、「この言葉のオリジナルは別の人物のもの」とのご指摘を、このブログの読者の方からいただきましたが、誰の発言であるにせよ、この言葉のもつ汎的な価値に変わりはないと思います。

さて、イギリスの物理学者・ホーキング博士によれば、我々の宇宙に地球と同程度の文明を持つ星が二百万ほどあるといいます。
しかし、我々は彼らと遭遇しません。それは何故か。
それは地球ほどの文明を持つようになると、自然の循環が狂い、加速度的に不安定になる。そして滅亡してしまうから、だそうです。

なるほど。確かに全地球規模で見ると、我々の文明も、もはや衰退期に入っているように感じることが多いですね。
文明の発展が、人類、ひいては地球上の動植物の最終的な幸福に相反する方向に向い始めている。これは、文明の衰退以外の何ものでもないと言えるでしょう。

核戦争は常に現実のものとなる可能性がある。
南太平洋の島国は海に水没しようとしている。
チェルノブイリ、福島原発の事故。

もし、ホーキング博士の言葉が正しければ、もはや何をやっても手遅れなのかもしれません。
しかし、だからと言ってニヒリズムに陥ることなく、「今日」できることを真剣に考え、取り組む。これが前述のゲオルグの言葉の趣旨ですね。

全地球レベルの話だと、なかなか現実味がわきませんが、身近な例で言えば、京都や鎌倉を歩いていると、「もはや日本の伝統美は失われた」と嘆かざるを得ないほど、景観破壊、環境破壊が進んでしまっています。
だからと言って諦めることなく、今、我々が取り組まなければならないことは何か、真剣に考えなければなりません。何が、最終的に人々や地球の幸福につながるのか。

2009/07/20

たとえ地球が明日滅びるとも、君は今日リンゴの木を植える

たまたま読んでいた「文芸春秋」(八月号)の石原慎太郎氏の寄稿文中に、非常に心を打たれる言葉がありました。

「たとえ地球が明日滅びるとも、君は今日リンゴの木を植える」

ポーランドの詩人・ゲオルグの言葉だそうです。この言葉については、「ゲオルグなる詩人は、「ポーランド」の詩人ではない」、とのご指摘や、「この言葉のオリジナルは別の人物のもの」とのご指摘を、このブログの読者の方からいただきましたが、誰の発言であるにせよ、この言葉のもつ汎的な価値に変わりはないと思います。

さて、イギリスの物理学者・ホーキング博士によれば、我々の宇宙に地球と同程度の文明を持つ星が二百万ほどあるといいます。
しかし、我々は彼らと遭遇しません。それは何故か。
実は、地球ほどの文明を持つようになると、自然の循環が狂い、加速度的に不安定になる。そして滅亡してしまうから。だそうです。

なるほど。確かに全地球規模で見ると、我々の文明も、もはや衰退期に入っているように感じることが多いですね。文明の発展が、人類、ひいては地球上の動植物の最終的な幸福に相反する方向に向い始めている。これは、文明の衰退以外の何ものでもないと言えるでしょう。

核戦争は常に現実のものとなる可能性がある。
南太平洋の島国は海に水没しようとしている。

「エコ」がだいぶ生活に浸透しつつあるものの、ホーキング博士の言葉が正しければ、もはや何をやっても手遅れなのかもしれません。
しかし、だからと言ってニヒリズムに陥ることなく、「今日」できることを真剣に考え、取り組む。これが前述のゲオルグの言葉の趣旨ですね。

全地球レベルの話だと、なかなか現実味がわきませんが、身近な例で言えば、京都や鎌倉を歩いていると、「もはや日本の伝統美は失われた」と嘆かざるを得ないほど、景観破壊、環境破壊が進んでしまっています。
だからと言って諦めることなく、今、我々が取り組まなければならないことは何か、真剣に考えなければなりません。
世界遺産に登録することが、本当に人々の幸福に繋がるのか、なども含めて。

2009/06/07

鎌倉 紫陽花情報(2009/6/7)

何気なく読んでいた雑誌に、とてもよい言葉があったのでちょっとご紹介したいと思います。

ある鮨(すし)職人さんの言葉。

「同じことを同じように10年間続けることがいかに大変か。それができたら一人前」

鮨のネタは、いつも同じ値段で仕入れることができるわけではないし、活きた素材は気候や湿度の違いによって微妙に変化する。そんな中で、10年間、常にお客様に満足していただけるものを提供し続けることが、いかに大変なことか。これは想像に難くないですが、これができてこそ職人として一人前だということ。

思えば、私の鎌倉ホームページ「鎌倉紀行」は、開設してから今年で丸6年。そして、昨年からは、NHK学園で講座「鎌倉浪漫ウォーク」を受持ち、古都研究家としての第一歩を踏み出させていただきました。
ホームページやブログの読者の方々、講座の受講生の方々に満足していただけるよう努力し続ける。
自分の軸をブレさせることなく、鎌倉をはじめ古都の魅力を発信し続ける。
これはこれでとても大変なことですが、上の鮨職人さんの言葉を読んで、改めてがんばって行きたいと思いました。

さて、前置きが長くなってしまいましたが、現在の鎌倉の紫陽花などの開花情報を、今日撮影した写真とともにお伝えします。

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長谷寺(長谷観音)の紫陽花は、全体的には4~5分咲きというところ(写真左)ですが、ヤマアジサイ(ガクアジサイ 写真中)は綺麗に咲いているものが多いですね。また、花菖蒲が見頃になっています(写真右)。

同じく長谷の御霊神社は、まだ、やっと咲き始めたというところ。

江ノ電「極楽寺」駅からほど近い成就院も4~5分咲き。今度の週末辺りが見頃になるでしょう。

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鎌倉駅からほど近い妙本寺も隠れた紫陽花スポットですが、こちらは例年遅咲きです。一応、今日足を運んでみましたが、ほとんどの株がまだ緑色の状態。6月中旬以降、7月上旬頃が見頃になると思います。

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2007/01/03

季節

JALカードの情報誌『Agora』に興味深い記事がありました。「言葉とこころー「季」」と題する文章で、ちょっと引用させて頂くと、

--日本に長く住む外国人が、困ったように私に尋ねた。「日本人は日本を説明するのに、『私たちの国には四季があります』という。なぜだろう」と。なるほど、どの国にも四季はある。We have four seasons! と言われると、彼らにとっては、「日本には空がある」と聞かされている気分に近いのかも知れない。--

確かに。日本の特色は?と聞かれると、「四季がある」「南北に長く、寒い地方から暖かい地方まで様々」などと答えることが多いように思います。
しかし、立ち止まって考えてみると、いわゆる温帯に属する地域には必ず「四季」がありますし、南北の緯度差となると中国などは日本の約2倍に達します。

恐らく、私たち日本人が自慢する「四季」というのは、自然の営みそのままの生の「季節」ではなくて、永い年月をかけて文化の次元に昇華した「四季」なのでしょうね。
俳句の「季語」しかり、春の桜や秋の紅葉を愛でることしかり、季節ごとにその地域で採れる特産物を食べること(最近では、わざわざ食べに行くグルメツアー)しかり・・・。

外国ではどうなんですかね。やはり「どこどこの地方で何々の花が咲き始めました」とかニュースでやるのですかね。以前は、全国版のニュースで「桜前線」や「初雪便り」、「流氷の到来」、更には「どこどこ神社の大祭」などを報道するのは電波のムダ使いと思ってましたが、これもこの国の文化や精神性を保持する上で不可欠のものかなあと思うようになってきました。

2006/12/12

気になる仏教説話

最近、『ユング心理学と仏教』(河合隼雄 岩波書店)という本を読みました。本自体はやや専門的な内容ですが、中で非常に印象に残る仏教説話が紹介されていたのでご紹介したいと思います。

「ある旅人が一軒家で一夜を明かすことになりました。夜中に一匹の鬼が人間の死骸をかついで来ました。すぐ後にもう一匹の鬼が来て、その死骸は自分のものだと争いますが決着がつきません。

そこで2匹の鬼は旅人に判断を仰ぎました。旅人が最初の鬼のものだと言うと、後から来た鬼は怒って旅人の手を体から引き抜きました。それを見た先の鬼は死骸の手を抜き取って代わりにつけてくれました。他の鬼はますます怒り、もう一方の手を引き抜くと、また先に来た鬼が死骸のを取ってつけてくれる。

こんなことをどんどんやっているうちに、旅人と死骸の体はすっかり入れ替わってしまいました。二匹の鬼はそうなると争うのをやめ、死骸を半分ずつ食べてどこかへ行ってしまいました。

驚いたのは旅人です。自分の体は鬼に食われてしまったので、今生きている自分が、いったい本当の自分かどうかわからなくて困っています・・・。」

ちょっと不気味な話ではありますが、仏教説話としては、「己とは何か」、更には「色即是空、空即是色」ではないですが、この世のものすべての「存在」自体を問う、非常に深遠な問題をつきつけているわけです。
しかしながら、私がこの話を読んで感じたのは、この説話、現代においてはあながち例え話、おとぎ話ではすまないなあということです。臓器移植、クローン人間等々・・・。

この説話、続きはどうなるかというと、困った旅人は坊さんに相談します。すると坊さんは、
「あなたの体がなくなったのは、何も今に始まったことではない。・・・・・愚かな人たちは『われ』というものにとらわれていろいろ苦しみもするが、一度この『われ』というものがどういうものか分かってみれば、そういう苦しみは一度になくなってしまうのです。」
と答えるのですが、現代の問題に対しては、なかなか回答を出すのは難しいのではないかと思います。

2005/07/17

鶴岡八幡宮の蓮

今日は、鶴岡八幡宮の源平池の蓮を見てきましたが、いくつか花を咲かせているのもありましたが、未だ多くは蕾でした。

八幡様の境内を入ると、右手に源氏池、左手に平家池があります。

源頼朝が、鎌倉の町を整備しはじめた頃は、まだ源氏と平家が争っていた時代。
そこで、奥さんの政子さんが、東の源氏池には3つの島を築いて三を産になぞらえて源氏の繁栄を祈るとともに、西の平家池には4つの島を浮かべ、四は死に通じると平家滅亡を祈願したというのは有名な話です。
その際、源氏池には、源氏の旗の色である白い蓮を、平家池には、平家の旗の色である赤い蓮をそれぞれ植えたのだそうです。
しかし、その後800年も経つ間にそれぞれの池の蓮は混ざり合ってしまい、今では源氏池にも赤い蓮があったりします。

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鎌倉で、ほかに蓮が見られる所といえば、

鎌倉駅近くの本覚寺の蓮(鉢植えですが)
材木座の光明寺の、有名な古代蓮

などですね。

また、蓮といえば、こんな素晴らしい詩がありますので、ご紹介したいと思います。
横浜の定泉寺境内にある田谷の洞窟の壁面に書かれているものです。

蓮はきたない泥沼に咲く
だけど汚れに染まらないで
美しい花びらを咲かせている
そんな美しい仏性を
みんながもっている
それを信じあおう
それを互いにみつけあおう

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2005/06/21

ミラーシーズン(鏡の季節)の鎌倉

先日、新聞の投書欄に載っていたお話。

ヨーロッパ(たしかアイルランド)から来た英会話学校の英語教師の方が、「日本の梅雨はミラーシーズン(鏡の季節)だね」と仰ったそうです。

鏡の季節。そう、道に出来た水溜りが、まるで鏡のように自分の姿を映しているという意味。

確かに言われてみればと思いますね。そして、「鏡の季節」なんていうと、なんかメルヘンチックでとても素敵な感じがしますね。

我々、日本人は梅雨というものに対して、ジメジメしてうっとうしいという先入観がありますが、ちょっと発想をかえるだけで随分気分が変るものです(と、投稿者の方も結んでいました。私もまったく同感)。

鎌倉といえば紫陽花、というくらい梅雨の季節の紫陽花が有名な鎌倉。
鎌倉こそ、ミラーシーズンを楽しまなければ、損ですよね!
今年は空梅雨なのか、ここ数日関東地方は晴天が続いていますが、また雨が降り始めたら、ミラーシーズンを楽しみたいと思っています。

2005/06/12

「袖振り合うも他生の縁」 竜宝寺の法話

大船に竜宝寺というお寺があります。

場所は、大船駅の西口(観音側)に降りまして、大船フラワーセンターの先の方になります。
大船フラワーセンターの前の歩道橋を渡り、その先のトンネル(竜宝寺トンネル)をくぐるとすぐ右手にあるお寺が竜宝寺です。

こちらのお寺の掲示板に、毎月ご住職がお書きになった法話が掲示されます。
その中に素敵な法話がありましたので、ご紹介させていただきたいと思います。
以下、抜粋して引用します。

『袖振り合うも他生の縁という言葉を簡単に意訳すれば、「(今)道ですれ違ったときに私と袖が触れ合った人(他人)とも、過去世においてご縁があった、だからこそ(今)こうして袖が触れ合ったのである」となります。
多少の縁だとほんの少しの縁ということになりますが、他生の縁はその人のひとつ前の前世に限らず、過去世、無数の人生において、自分とその人との間にご縁があったからこそ、ささやかなものであってもそこに出会いが生じるというわけです。
この話にロマンを感じるのは私だけでしょうか。・・・』

なんとも素敵なお話だとは思いませんか?
このような素敵な法話を、毎月毎月紹介してくださっているご住職に感謝です。

竜宝寺では、境内に移築された江戸中期の建物とされる旧石井家住宅(重要文化財)なども見学できますので、是非立ち寄ってみてください。

私のホームページ『鎌倉紀行』での竜宝寺の紹介ページは、こちらです。→ 鎌倉紀行 竜宝寺

写真は、竜宝寺山門と境内の旧石井家住宅。

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